僕が勤める会社で総務をしているKさんがこの度めでたく還暦を迎えられた 彼女は人当たりが良く 夫のことを何よりも愛している善良さと ただいるだけで周囲に安心感を与えられるという貴重な資質を持った人だ 会社としても定年という形で一区切り着くから 普段から仲良くしていた僕の上司Hさんが幹事でお祝いを企画しはじめ お店の下見に行くというので声を掛けられのこのことついていった先で味の薄いチーズを食べている時に Sさんから着信があった


「あぁ先生 今大丈夫ですか?」


 Sさんは僕よりも五つか六つ年上だというのに 以前の会社でたった数ヶ月程度先に入った僕のことを先生と呼び (最近はだいぶ崩れてきて安心しているのだけれど) 敬語で接してくる


「大丈夫ですよ どうしたんですか?」


 Hさんに声を掛け席を外す 予約しようとしていたお店はビルの地下にあったから ふらふらと電波の良い場所を探しているうちに エスカレーターを上がりエントランスへ出てしまう


「センセ H君って憶えてますか?」


「憶えてますよ あまり印象ないですけど」


 とは言ったものの 前職は他社へ人を派遣する類の会社だったからHさんと仕事上の関わりは実質なく 飲み会の席で数回話した印象をたぐり寄せようとしても 真面目そうでひょろ長い外見の男性という以上のことは思い出せそうもなかった


「あの子 先月末に亡くなったんですって」


「どうして?」


「なんか心臓の発作? とか 俺も又聞きなんでよくは知らないんですけど」


「はぁ……」


「センセが辞めたあとだったかな? あの子 一度鬱で休職してたんですよ あの会社だと休職の最長期間は3ヶ月って決まっててそれ以上休むと解雇っていう形になっていて 3ヶ月やそこらで治るはずなんてないしせめて半年は面倒見ましょうよ って当時会社と色々戦ってたんで 個人的に思い入れ強かったんですけどねぇ 4月にT社長から『H 仕事復帰したんだよ』なんて連絡もらったあとだったので なんかもうショックで」


 iPhoneを当てていた耳に伝わる熱が どうしてかひどく他人事のように感じられる 二人 しばらく黙り込んでいると 「まぁそれでですね」 とSさんが話を続けた


「H君は多分 自分が死ぬなんて思ってなかったはずなんですよ で やっぱり人生一度しかないので後悔ないように生きたいなと思って なんというか……話しておきたかったので先生に連絡したんです」


「うん」


「あぁ あとJちゃんなんですけど」


「うん」


 Jさんもやはり以前の会社で知り合った同じグループ会社の傘下に勤めていた人で 仕事の傍らで有名なアマオケの主催をしているが偉そうなところなどちっともなく このあいだも「飲み屋でもらったアボガドの種が芽吹きました!」と写真を送ってきたばかりだった 前職での繋がりが保たれているのは彼とSさんだけで 彼等にとってもそれは同じようなものであったから 僕らは折に触れ三人で集まることが多かった


「会社首になるんだって」


「え?」


「6月末か7月中くらいだって」


「本当に? 営業成績上がってないから?」


「まぁそうみたいです で話が繋がってくるんですけどね」


「あぁ うん もう解った」


「あら? 察し良いねこの子は相変わらず」


「うるせーよ」


 三人集まった時のゆるゆるとした空気の中で話題に上っていたことはあったのだけど Jさんを頭に立てSさんと僕がそれをサポートする形で起業することになるかもしれない なんかもう周囲の速度についていけない 小さな女の子が細い指で機を織っていくようにゆっくりと積み上げていきたいものが 僕にはあるのに